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2020-09

若かったジーナ

 ジーナが初めてイタリアに来たのは、20年前の夏だった。当時はまだ22歳、食べた分はすべて胸に集まって、重力を跳ね返してたわわんぷるるんなオッパイになっていた。わずかな残りが腰に溜まってぷりぷりのヒップを形成していた。ヨーロッパではどの国でも、スリムよりグラマーがモテる。ジーナはまさに肉感的でゴージャスというか、とにかくダイナマイトボディだったのである。
 1989年、共産党政権崩壊のニュースをテレビで見ていても、それが自分の生活をどう変えるのか、若かったジーナには全く想像ができなかった。それからしばらくして、チェコとスロバキアが分離独立した直後、彼女は祖国を離れた。
 理由は政治的なものではない。一人のイタリア人男性と出会い、恋に落ちた。彼はある日、フィアットの狭い後部座席に100本のバラを積んでくるというイタリア男にしかあり得ない破天荒な行動に出て、熱烈&強引に弱いお年頃だったジーナを口説き落とした。2カ月間交際して、結婚した。彼は仕事を終え、イタリアに帰国しようとしていた。夕食に招いたその席でプロポーズされ、即答でイエスと応えた。外国人との交際を望んでいなかったはずの両親は意外にも反対せず、祝福してくれた。3日後、2人はフィアットに家財道具を積み込んでローマへと旅立った。
 新婚旅行はローマへの道のり。ニュルンベルク、ミュンヘン、チューリッヒ、コモ、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、そしてローマ。すぐに小さなアパートを買った。夏のローマは灼熱地獄だったが、それでもすべてがキラキラと輝いていた。
 当時でさえ狭かったアパートだが、今から考えると当時は生活がシンプルだったからか、それほど苦ではなかったと思う。しかし今では狭くてボロくてどうしようもない。だが、20年間ここで暮らしている。ジーナの体重は70キロを超えて、高血圧で医者から間食を禁止された。あの日、100本のバラをプレゼントしてくれたエツィオは今も変わらず無上の愛を捧げてくれているが、それが言葉や行為で示されることはもうない。もともと痩身のエツィオは、体重こそ20年前と変わらないものの、筋肉が削げ落ちて貧相に見えるようになった。
 それにしてもアパートは狭い。ナポリの大学に進学した息子のジョヴァンニが交際しているという日本人の小娘と連れて帰ってきた。どうせセックスしてるだろうが、結婚前の2人を同じ部屋で寝かせるわけにもいかないので、小娘は寝室でジーナと一緒に寝ることになった。ジーナはベッド、小娘はソファ。小娘は家が広くて素敵だと褒めたが、ジーナは全く信じていない。日本人は金持ちで、近代的なビルに住んでいる。このみすぼらしい古いアパートに、たとえ数日でも4人が一緒に寝泊りするのだから息が詰まるだろう。第一、私の息が詰まりそうだ。私も昔は若かった。こんな小娘よりもっと魅力的で、頭の回転も早くて、モテた……。
 規則的な寝息を立てている小娘の、タオルケットからのぞく頭を見ていたら腹が立ってきた。あの頃の私は、こんな小娘よりもっと魅力的で、頭の回転も早くて、スケベだった。ジーナの指が、無意識に下半身へと伸びる。あの時、エツィオはローマに着くとすぐに会社に出向き、ボスにプラハでの仕事の報告をして、バカンスを取った。アンツィオから汽船に乗り、地中海の小さな島で愛し合った。20年前の私には輝かしい未来があった。今はどうだろうか。20年後はどうなるのか。そしてその後は。ジーナは果てることなく、指を動かし続けた。
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運び屋カルロ

 イタリア名物のジェラートと日本のアイスクリームが違うのは、脂から作られるアイスクリームとは対照的に、ジェラートは果実をそのまま凍らせて作っているからだ。脂肪分が少ないからサッパリしているのに、果実がたっぷり入っているからコクがある。ウマいのに太らない魔法のデザートだ。ただし、脂と生フルーツじゃ原材料費が段違いである。野菜果物全般が安いイタリアと比べると、果物の値段が高い日本ではジェラート屋を成立させるのが難しい。凍らせるわけじゃなくて半冷凍なので保存も効かず、多店舗(チェーン)化も難しい。日本でイタリアンジェラートが食べられないのはそんな理由からだ。
 カルロの家は、家族経営でジェラート屋をやっている。父がマッジョーレ広場の一角に店を出したのは、もう30年も前のこと。ジェラート屋をやっていくには、毎日新鮮な原材料(主に果物)を仕入れる必要がある。父の生家は農家で、末っ子だった父は、その収穫を使ってジェラート屋を始めたのだ。
 父は店のすぐ近くに住居を構え、毎日夕食を終えると車を2時間ほど走らせて実家に戻り、収穫したばかりの果物を受け取るとすぐさまUターンする。家に戻って仮眠を取ると、日の昇らぬうちから仕込みを始めて、午後から店に出ていた。午前中と夜は母が店に出る。カルロたち兄弟も、小さな頃から店を手伝っていたので、ジェラート屋のノウハウは知り尽くしている。
 ところが去年、父は引退して生家に戻ることを宣言した。老後は自然の豊かな生家で暮らしたいと以前から話していたし、老いた祖父と祖母が心配だという事情もあった。そして、両親が田舎に引っ込むのに伴い、なぜかカルロも一緒に行くことになった。
 大型トラックがバンバン飛ばす高速道路を降りて、ローマ市内へ入る。店へと向かういつものルートを辿りながら、カルロは貧乏クジを引かされた自分のマヌケぶりに腹を立てていた。ずっとローマ市内で育った彼は、実家で暮らすことになるなど想像さえしていなかった。ただ、父が引退を宣言すると、兄と妹は「カルロが付いていくべきだ」と言った。両親も末っ子のカルロに来てもらいたいようだった。なぜ自分なのかを理解できないまま、何となく了承してしまった。こうしてジェラート屋は兄と妹のものになり、カルロは毎日、夜が明けぬうちに起きて店まで果物を運び、戻ってきた後はゴロゴロしているだけの男になった。
 店に出ているのは面白かった。客は常連ばかりで、一番小さい1ユーロのカップかコーンのジェラートを注文し、時には30分ばかりおしゃべりしていく。ジェラートの味にも自信があった。何しろ、収穫したばかりの材料をジェラートにしているのだ。市場で仕入れをする店など相手にならなかった。うまいジェラートが喜ばれ、店が社交場として機能し、地域で高い評価を得ていることを、カルロは誇りに思っていた。だが今は、ただの運転手でしかない。
 兄は経営者気取りで、店を改装した。フローズンヨーグルトなど新しい流行メニューも取り入れた。妹は婚約者を店で働かせることを兄に頼み込んで、承諾させた。カルロが店に出なくなってキツくなったシフトが、これでまた回るようになった。
 短くなったタバコを投げ捨て、ハンドルを握りしめる。いつもの曲がり角を曲がり、マッジョーレ広場に入るが、そこに彼の見慣れた店はない。無機質なプラスチックでできた新しい店。兄の住むアパートはこの近くにある。妹は婚約者の家に転がり込んでいる。どっちにしても、みんなまだ夢の中だ。車を止める。早く荷物を降ろして戻らないと、通勤ラッシュに巻き込まれてしまう。ただ、幼い頃から慣れ親しんだ広場に、最も見慣れたはずの「彼の店」がないことが、心に空洞を作る。
 モヤモヤしてたって仕方ないか。のろのろと車から降りる。時計の針は6時を指そうとしている。近所の人も、店の常連も、幼馴染もまだ家から出てはこない。ハッチバックを開け、果物を満載したケースをシャッターの前に重ねる。カルロはバンパーに腰掛けて、タバコに火を付けた。運転手の仕事はつまらないが、一応は必要とされている。ただし、それはこれからもずっと続くのだろうか? そして自分は、この孤独な作業に今後も耐えられるのだろうか? 酒でも飲みたいと思ったが、朝である。運転もしなきゃならない。カルロはため息とともにタバコを捨てて、車に乗り込んだ。

ベースのミンモ

 ミンモはメタルバンドのベーシストだ。プロを目指しているが、もう28歳なのにバンド活動で金を稼いだことは一度もない。いや、どんな手段であれ、自分で金を稼いだ経験がないと言うべきだろう。実際は大学生なんだけど、彼にとって大学とはライブの打ち合わせ場所だ。「鉄拳のジョー」ことジョルダーノが住んでいるコンドミニアムの一部屋を借りて住んでいて、朝から晩までベースを練習している。ちなみに、ジョーのことは「いいトシこいてゲーム馬鹿」と見下している。自分はいずれベーシストとして大成し、ロックスターになった後、名プロデューサーになるのだが、ジョーはあと何年かしたところで、ゲーム以外に何の才能もない中年の自分に気づいて愕然とするだろう(しかもワキガだし)。
 ジョーと仲良くなったオレは、彼の家に入り浸っているうちにミンモとも仲良くなった。キッチンは共用なので、毎日そこでビールを飲んでいれば自然と仲良くなるのだ。オレはデイヴィッド・ボウイを語れば、ミンモはレッチリの音楽性の変化に言及した。オレがエルヴィス・コステロのジャケットを絶賛すると、ミンモはアンスラックスのメタル界における位置づけを定義した。
 ビールを飲んで音楽を語る日々が3カ月に及んだある日、オレは何気なく「君がベース弾いてるの、見せてくれよ」と言った。ミンモは自室にオレを招き、窓とカーテンを閉めて防音に最低限の気を配った。そして、ナチュラル・カラーのスティングレイベースをストラップで肩から下げ、ベースアンプの電源を入れる。ピックは持たず、右手の2本の指で弦をもてあそぶ。ボンボン、ボンボンと音を確認する。
 ミンモは直立したまま縦にジャンプし、8ビートのリズムを刻んだが、ジャンプが思いっ切り指に影響してて、リズムがバラバラ、そしてグダグダである。ボーカルラインらしいメロディを口ずさんでいるが、何の曲だか全く分からない。そして、同じ音を小刻みに叩き続けるだけ。「ダダダダダダダダ、ボボボボボボボボ」、分かりやすく言うとBOOWYのベースだ。演奏を始めてからきっかり2分で、「もう十分だ」とオレは言った。何となくだけど、こういう場合はチョッパー奏法とか、テクニカルな何かを見せるのが常識だろう。ミンモはわずか2分で汗だくだく、「あれ、オレのビートはあまり気に入らなかったのかな?」みたいな顔でこっちを見ている。
 オレはキッチンに戻り、新しいビールを開けた。ジョーは馬鹿だけど、鉄拳をやらせたら右に出るものはいない。ミンモは本物のクズである。こっちにやって来たミンモが「ビールもらうよ?」と言った。よく考えてみれば、コイツはいつもオレのビールを飲んでいる。これから、いくら入り浸っているとは言っても、この家の冷蔵庫に自分のビールをストックしておくのはやめようと決めた。

バスケットマンのアッティリオ

 アッティリオはマンマお手製のサーモンのパニーノ(サンドイッチ)を食べ終え、ココアを飲んで一息ついていた。彼はパートタイムの経理見習いで、9時に出社して15時には仕事が終わる。今日も仕事はほとんどなかった。14時になったらオフィスに戻って、みんなのデスクの上を片付けて、15時まで電話番をして帰るつもりだ。
 仕事は早くて確実だし、人当たりも良い。ハンサムだし誠実そうなルックスなこともあって、みんなに人気がある。入社してまだ1年のパートタイムだけど、オフィスのみんなは彼を「オレたちの仲間」と見なしてくれる。本当はフルタイムの社員になって、給料を倍に上げてもらいたいが、ここなら好きな経理の仕事ができるし、居心地もいいので転職する気はない。
 仕事が終わったら一度アパートに戻って、用具一式を持ってスクーターで体育館へ行く。「オンタイムは経理、その後はバスケ」が彼の人生だ。今のチームは、レベルはそれほど高くないけど、みんな仲が良いし、月曜から金曜までの毎日、高校の体育館を借りられるコネがある。イタリアの公立学校には部活がなく、夕方以降は誰も使わない。彼らのチームは、体育館と校門のスペアキーを預けられている。
 バスケットボールを心から愛している。仕事よりも恋愛よりも、今はバスケをやっていたい。競技者としては一流になれなかったけど、そんなことは関係ない。気の合う仲間と一緒にプレーすること、時々テレビで中継するNBAを見ることが、アッティリオの日々の楽しみなのだ。
 アッティリオは温和そのものの人間だけど、バスケ人気が一向に盛り上がらないことには怒りを感じている。バスケは洗練されたスポーツだ。テクニックと戦略性が高いレベルで噛み合っているし、何よりも劇的な試合が多い。その点、粗野で退屈なサッカーがこの国で圧倒的人気を誇っていることに納得できない。体をぶつけ合いながらボールと相手を蹴る姿は「洗練」という言葉からかけ離れているし、ファンはみんな暴力的だ。サッカーの討論番組なんて、低俗すぎて身震いがする。
 この状況を変えるのは、『スラムダンク』しかない。イタリア語に訳されたマンガはチーム内で大流行した。そして、アニメ版が先日から放送開始となったのだ。「頼むぞ、ハナミチ……」。彼は震える思いで祈った。

CMのデミー

 オランダ人のデミーは、フリーのコンセプトマネージャー(CM)だ。CMって何じゃい、とオレも思った。ホテルのターゲット顧客に合わせたコンセプトを決めて、それを実現させる人である。2000年の時点で、デミーはローマでの3年計画の3年目、まさに大詰めを迎えていた。共和国広場という超一等地で開業するホテル・エクセドラが、彼の職場である。ヒルトンもリッツも尻尾を巻く高級ホテルだ。
 ローマ帝国時代のテルメ(浴場)が広場になり、その一角に建てられたエクセドラは、立地が決まった時点でもう5つ星確定である。デミーは、「ローマ帝国の荘厳さを生かし、ゲストが歴史と一体感を持てるようなクラシック&デラックスな感じ」というコンセプトを掲げた。壁を大理石と決めたら、複数の業者が持ってくる大理石のサンプルを集め、比較し、採用の決定をする。それを、建材から調度品、コンシェルジュの制服に至るまで、すべて決めるのが彼の役割だ。
 あの当時、デミーはほぼすべての仕事を終えていたが、いくつか検討課題を残していた。そのうちの一つが、レストランで使う食器だ。ローマ帝国は、世界中に遠征して、征服して、その土地土地のモノを持ち帰ることで繁栄を誇示した。それをレストランで再現すべく、料理はイタリアン&フレンチがベースだが、その端々に他の文化をミックスしようと思っていた。で、彼の豊富な知識を持ってしても不足していたのがオリエンタル、特に「和」である。イタリアンのコースの最後に、ジェラートが和食器で出てくる、なんて演出を彼は考えていたのだ。
 この頃、日本文化は知識層の間で流行の兆しを見せていて、アホみたいな値段で畳が売ってたりした。デミーはそれを取り入れようとしたんだけど、なにせ格調高いホテルなので、下手なものは導入できない。選定に入る前に、しっかりと和食器について勉強しなければならないと思っていた。
 ある日、そんな話を嫁さんのタミーに話したら、「じゃあ私の語学学校に日本人が何人かいるから、話をきいてみたら?」ってことになった。こうして、バカ面を下げたオレが登場するのである。
 デミーの仕事が仕事なので、自宅も超オシャレである。悪いけど、ブルータスカーザに載ってる家なんて犬小屋だ。そんなデミー宅でのディナーに、我々ローマのニート日本人軍団が招待された。その中でデミーが目をつけたのは、サービス精神で喋りまくるオレである。名古屋出身のオレは、「故郷には瀬戸って村があって、そこが和食器の起源なんだ」とテキトーな説明をした。デミーは何やら百科事典みたいなものを持ってきて、瀬戸が記載されていることを確かめ、「いろいろ教えてもらいたいんだ」とオレに握手を求めた。
 我々は「まずは親交を深めよう」とビールを飲みながらタミーの手料理を食った。トムとジェリーによく出てくる七面鳥の丸焼き、あれ初めて食った(別にクリスマスではない)。ちなみにデミーは、身長198センチ体重125キロの巨漢である。当時ラツィオに在籍していた巨漢のDF、ヤープ・スタムよりもデカい。「それ普段も使ってんの?」と突っ込まざるを得ないサイズのジョッキ(ピッチャーに近い)をグイグイと空け、食う量もそれに負けないレベルだ。
 3時間後、我々は泥酔していた。腹がはちきれんばかりに食い、飲んだ量は覚えていない。「イッキ」という日本文化はデミーに感銘を与えたらしく、彼は立ってられなくなってソファーに沿った床に寝転がってウダウダし始め、オレはそろそろタクシーでウチのベッドに直行しないとこりゃ吐くぞ、って感じだった。
 その数カ月後にエクセドラは開業した。デミーの次の職場はシンガポールの高層ホテルで、半年ぐらいでニューヨークでの仕事も始まって掛け持ちしなきゃならないらしい。できればヨーロッパ内にいたいんだけど、ヨーロッパを離れたほうがギャラが良いそうだ。エクセドラでどんな和食器が採用されたのか、オレは知らない。

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プロフィール

 
ミレニアム(新千年紀)の年、オレは“永遠の都”にいた。語学学校に籍を置いてはいたが、積極的に勉強するでもなく、サッカーを見て日々を過ごしていた。
いろんな人に出会った。いいヤツも悪いヤツもいたし、たいていのヤツは一つの体の中に「いいヤツ」と「悪いヤツ」を飼っていた。記憶が薄れつつある今、久々に彼らのことを思い出して、書き残しておこうと思う。     by すずき

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